豊島へ
直島の翌日、豊島に向かいました。
肌寒いけど、よく晴れて、空の青い、雲の白い天気でした。
豊島、素晴らしい所でした。
自転車をレンタルして、景色を見ながら、豊島美術館を目指して。
長い坂道を上ったり下ったり、気分よく。
そして、豊島美術館への最後の上り坂を上ったら、
すごかった。
景色に。
わーーーー!!!って。
すごくて、おもわず笑っちゃっいました。
本当に。
すごく急な下り坂の先に青い海と空。横に広がる棚田も本当に美しい。
勾配の魅せる遠近感がすごく立体で。
そして、自転車でゆっくり下る私の真横を、トンビかなワシかな、大きな猛きんが風に乗って、私と並走して飛んで。
すごい!こんな素晴らしいことって!嬉しいことって!!
あの場所での、あの気持ちは「美しさと豊かさへの驚きと喜び」でした。
そんな気持ちのまま、
豊島美術館内へ。
私は、どんな場所なのかどんな作品なのか、何も知らずに。
作品へ向かう道の中、友達が、
「内藤礼さんは、『地上に存在していることは、それ自体、祝福であるのか』というテーマで作品を創っているんだよ。」
と説明をしてくれました。
それを聞いて、「「命」と同じものってことだよね、すごいテーマだなぁ」って思いながら作品へ。
もう、言葉にできませんでした。
心がふるえて、
ただただ泣けてしまいました。
この空間はこの作品は
わたしにとって、すごく「ほんとうのこと」でした。
事実が真理。
ただ、そこに在るということ。
常にかたちを変えながら廻っていること。
いのち。ガイア。宇宙。魂のしくみ。呼吸。血管。温度。
そいゆうことへの片りん、そうゆうものの一端を示していると、静かに強く感じました。
すごく外側のことのようで、実はすごく内側のこと。
また、その逆も。
そして、
神様なのかな、人知を超えるなにかが創った、物理も含めたこの世界の全てのものは、「いのち」で。
それは、生まれて在る、そのまま、それだけで、最善にできていて、真に美しい。ということ。
私は、自然を眺める時や自然の中をゆく時、
私はいろんなものを与えてもらって、いのちの中で生かされて、今ここにいさせてもらっている。
私がここにいることは、善いも悪いもなくただ「在ること」として認めてもらえていて。
全てのいのちは(私のいのちも)大きなひとつに還りながら、ずっと廻っている。全てのいのちは、神様のこども。
そんな思いが浮かぶことがあるんだけど、
全ての繋がりの(外界と体内表裏一体の)、なにか芯のような一部分を、本当にシンプルに切り取って、大切に取り出した、この空間と作品に、
私が感じているそうゆうことは「ほんとうのこと」だよと、うなずいてもらえたような気持ちになりました。
後に、この作品は「母型」という名だったことを知って、なんとも言えない気持ちになりました。
内藤礼さんって、本当にすごい。
作品を観終えた後、すぐまた、あの海と空と棚田の景色がみえた時、
「この場所に、この作品」の、完璧さと素晴らしさに、脱帽でした。
気持ちがよくて、気分がよくて、嬉しくて、本当に美しい場所で、
心も頭もいっぱいになってしまったのか、空っぽになってしまったのか。
私は言葉が出てこなくてもう、「すごい!いい!」と言って笑うだけでした。
私が死ぬまでの一生のうちに何度も訪れたい場所に出会えました。
私の大切な人たちにも是非訪れてもらいたい場所だと思いました。
初めてあの場所、あの空間と作品に入り込んだ時のあの感じ、忘れないようにしたい。
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